〜天正の法難〜 善導寺最大の厄難の地
放光寺と祖吟上人
(ほうこうじ と そぎんしょうにん)


供養塔

追善法要のようす

供養塔周辺

 国道210号線、久留米市山本町豊田日野曽根信号より南に1Km、耳納連山の中腹に向かう林道を進むと、
放光寺跡地(善導寺より南西約4Km・車で約10分)があります。
この放光寺跡地は、善導寺史上最大の厄難の地と伝えられています。

 天正12(1584)年、筑前立花城主・戸次道雪が、善導寺第19世祖吟(そぎん)上人(鎮蓮社大譽祖吟大和尚)
をはじめ所化の上座12人、塔頭36人を放光寺に招き入れ殺害するという事件が起こりました。

 当時善導寺の大檀那であった草野氏は、もと大分・大友氏に属していましたが、天正十二年、大友宗麟の元を
離れて、佐賀の竜造寺氏と提携し、その所属となりました。そのため大友氏配下の戸次道雪は、草野氏を恨み、
この殺害となったのです。

 祖吟上人は、最期の時にあたり、
      『打つ人も 打たるる人も もろともに おなじ蓮の 身とぞなりける』  と詠じられています。

 道雪はその後も善導寺を攻め、火を放って殿堂伽藍をみな焼き払ってしまいました。寺僧たちは善導大師や
開山国師(共に国重要文化財)の像を抱え、筑後川を渡り避難、しかし追手の追及はきびしく、一時は尊像を
現在の三井郡北野町大城あたりに隠して四散しました。やがて戦乱が鎮まると、僧たちは仮堂を建てて尊像を
安置し、称名念佛の声を響かせました。そこでこの地を[念佛田]と呼ぶようになり、この名前は現在も残っています。
その後、善導寺はもとの地に再建され、現在にいたるのです。

 この事件は、まさに 天正の法難 ともいうべき善導寺に於ける空前の災厄であって、什宝や古記録など多くの
ものを焼失してしまいました。

 その後歴史の一ページとして風化しつつあったこの放光寺跡地が、【山ノ辺の道研究会】の方々により探究され、
平成10年に角塔婆を建て法要を勤めさせていただきました。
 毎年、12月上旬に草刈り清掃をし
祖吟上人の命日である12月15日にあわせて追善法要を行っております。

(H12年5月善導寺機関紙「聖光」より転記し改訂)


【供養塔建立の由来】 山ノ辺の道文化研究会 平成10年4月